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探偵の知識

被疑者の権利|黙秘権(自己負罪拒否特権)|権利保障の対象・範囲

2025年11月19日

『刑事訴訟法』 酒卷 匡著・2024年9月20日
ISBNISBN978-4-641-13968-8

1) 憲法38条1項にいう「不利益」とは、刑事上の不利益すなわち「自己が刑事訴追を受け、又は有罪判決を受ける虞のある」事項をいい(法146条参照),刑事責任を科しまたはこれを加重する事項以外には及ばない。したがって、民事上の責任のみが問われる事項や、犯罪事実であっても既に公訴時効が完成した事実、有罪・無罪等の確定判決を経て一事不再理の効力が生じている事実については、刑事訴追や有罪判決を受ける可能性がないから「不利益」に当たらない。また、「刑事免費(訴追免除)」制度を導入した場合には[後記)、免責を受けた者が刑事訴追と有罪判決を受ける可能性が失われ、北罪事実に係る事項は当人の「不利益」に当たらないことになるから、当該事項について証言をさせることができる。なお、刑事訴追を受けるおそれのある事項の範囲は、犯罪事実及びこれに密接に関連する事実と、これらに現実的・実質的に結びつき得る端緒となる事項にも及ぶと解すべきであろう。
被疑者・被告人については、前記のとおり法律上全面的・包括的な黙秘権がある。被告人の氏名を「原則として・・・・不利益な事項に該当するものではない」と解して対象範囲から除く判例(最大判昭和32・2・20刑集11巻2号 802頁)
は疑問であろう。仮に判例の憲法解釈を前提としても、氏名を告げることにより起訴された犯罪が当然に被告人の犯行であることが判明するような場合や、身許が明らかになることにより当人の刑事上の不利益事項が発覚する現実的・実質的可能性がある場合(例,余罪や前科の発覚)には、憲法38条1項の保障が及ぶと解される。
* 氏名を記載しない弁護人選任届の効力が問題となる場合には、第一に、選任届に氏名を記載させる手続上の負担が、「強要」とまではいえないと解する余地があるう。他方,第二に,最高裁判所は、「氏名を記載することができない合理的な理由もない・・・••・被告人の署名のない弁護人選任届・....は.・・・・・無効」とするが(最決昭和
44・6・11刑集23巻7号941頁等),弁護人選任届の効力は、被告人との連署を必要とする弁護人選任書(規則18条)の制度趣旨に鑑み、氏名の記載がなくとも被告人が誰であるか他の方法で特定されていれば有効と解することができよう。
(2) 法律上・事実上の強要が禁じられているのは不利益な「供述」である。
すなわち、言語的またはこれに準ずる意思伝達の作用を有する表現行為に限られる。対象者から当人の刑事訴追や有罪判決に結びつくおそれのある情報を獲得する作用があっても。意思伝達の要素がない作為は「供述」に当たらないか5,これを法的に義務付けても憲法38条1項違反の問題は生じない(例。アルコール濃度検知のための呼気検査の法的義務付け)。最高裁判所は、道路交通法の規定による察官の呼気検査を拒んだ者を処罰する規定の合憲性について、「右検査は…・・・・・運転者らから呼気を採取してアルコール保有の程度を調査するものであって,その供述を得ようとするものではないから、・・・・・・憲法38条1項に違反するものではない」と説示している(最判平成9・1・30刑集51巻1号 335頁)。
被疑者に不利益な証拠物を強制的に差し押えることも、もとより「供述」を得ようとするものではないから、憲法38条1項の規律とは無関係である。最高裁判所は、強制採尿について、憲法38条1項違反の上告趣意に対し「尿の採取は供述を求めるものではないから、所論は前提を欠[く]」と説示している(最決昭和55・10・23集34巻5号 300頁)。
*現行事手続には存在しないが、例えば、被疑者に不利益な内容の書面を新たに作成して提出させることを法的に義務付ければ、「供述」の強要になろう。また、当人が作成し既に存在する不利益な内容が記載された書面を提出するよう法的に義務付ける場合には(例、罰則付文書提出命令)、文書提出行為が義務付けられる結果提出行為により、当人が当該不利益文書の存在を認識しこれを所持していたこと自体を外部に伝達する作用を有することがあり得るので、それが自明な事柄でなかった場合は「供述」の強要になると思われる。もっとも、このような既存の不利益文書を状により差し押えることは、憲法 38条1項に違反しない。
**「ポリグラフ検査」は、質問に対する対象者の生理的反応(呼吸・脈拍・血圧・発汗等)の変化を測定・観察して、専門家がそこから内心の状態を検定する心理鑑定であるから、「供述」を得ようとするものではない(東京高決昭和41・6・30 高集19巻4号 447頁参照)。ただ、対象者が制興できない身体的・生理的変化を介して内心の状態を表出せしめる点において、自己負罪拒否特権や供述拒否権の趣意である人の意思決定の自由の確保や内心への介入の禁止の趣旨に反するのではないかとの疑問はある。もっとも、検査の性質上これを強制すれば検査結果の頼性が損なわれるので、対象者の同意を得て実施されている。検査の性質を十分説明し理解を得た上での同意があれば、この点の問題は解消されよう。
***薬物を用して対象者の意思による抑制を弛緩させ、意識下にある感情や記憶を語らせる「麻酔分析」は、精神医学や心理学上の検査・診療手段として用いられることがある。この手法を被疑者の取調べに用いることはもとより許されない。
薬理作用で意思決定の自由を失わせ供述を得ようとするものであるから、黙権を侵害するのは明らかである。捜査の過程で行われた精神鑑定や心理鑑定においてこの手法が用いられ、対象者の「供述」が得られたとしても、それは鑑定の素材・資料として用いることができるにとどまる。これを犯罪事実の認定に用いれば黙秘権侵害となる。いわゆる「催眠術」により得られた供述も同様であろう。